コロナウィルスは日本人の心が試されてる(大切かと思います)
感謝してます。
先日、コロナウィルス感染症で大好きだった志村けんさんがなくなりました。
幼い頃からけんさんの笑いで日々を救っていただいていました。
あまりのショックで、当日は時が止まったかのようでした。
多くの方がSNSでも志村けんさんを悼む投稿をされていて、私も涙が溢れました。
多くの方が嘆き、悲しみ、怒り、喪失を感じたことと思います。
その思いを無駄にしないように、プラスに変えられるように、今回は、私がコロナウィルス感染症から思う事について書いてみたいと思います。
今回の画像はハチなのですが、その理由は後ほど。
無視できないこと=大切なことを学ぶ時期
志村けんさんだけではなく、クロカンさんやJリーグの酒井高徳選手など有名な方もコロナウィルス感染症にかかるというニュースが連日出ています。
著名な方がかかっているということは、より一層ただならぬ気持ちになります。
私たちも無視できない、今後はいつ誰でもかかる可能性があるということを感じます。
大変なことが起きている時、それは大きく変化する時期
2011年3月11日、ちょうど9年ほど前、日本ではとてつもなく大きなことが起きました。
それは東日本大震災でした。1000年に1度の大地震と言われました。
そんな東日本大震災が起きた後、私の尊敬する方はこのように言っていました。
「なぜこのことが起きたか?もし考えるとすれば・・・」
その方は、高額納税者公示制度(長者番付)12年間連続10位以内。
日本一の納税額者と言われている斎藤一人さんです。
当たり前は一つもないー感謝が必要なのかもしれません
彼が教えてくれたことは、
「水が出るのがあたりまえ、食事があるのが当たり前、俺たちはほんとに感謝のない生活してたの。」
こちらの動画、以前は門外不出だったのですが、聞けるようになったので、是非聞いてみてください。
一生に一度聞いたら、人生が180度変わってしまうくらいの音声です。
これを、以前は100回聞きしな、と一人さんがおっしゃっていました。
私たちは、恵まれていることが当たり前の世界に生きていました。
それこそ、
- 蛇口をひねれば水がでる。
- スイッチを入れたら電気がつく。
- スーパーに行けば食べ物が買える。
- 服屋に行ったら服が買える。
・・・
数えだしたらキリがありません。
それこそ、昔の将軍・王様よりもずっとずっと裕福な暮らしをしています。
それが、もしかしたら私たちにとって当たり前のことすぎて、感謝をすることを忘れてしまっているのかもしれない。
物質的なことだけではなく身体的なことも当たり前ではない
私たちの手が動き、足が動き、朝、目が覚めることでさえも、もしかしたら当たり前と考えていますが、そうではないのかもしれません。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんの動画を拝見した際、身体が動くことって当たり前ではなかったんだということを感じました。
日常の当たり前は当たり前ではない
給料が出るのが当たり前、それがおびやかされています。
トイレットペーパー、マスク、日常ですぐに手に入っていたものが、手に入らなくなっています。
あなたの当たり前と考えてることは何でしょうか?
それはすべて、当たり前ではないのです。
生きる行為に対して問われている?
今回のコロナウィルス感染症は、肺の機能が正常に動かなくなるとのこと。
今まで生きてきた中、呼吸をしようと思って毎秒意識してきた人はいないかもしれません。
つまり、呼吸は無意識に、つまり当たり前のようにできていた。
私たちの身体が正常だったからできていた。正常というのが当たり前だった。
しかし、このコロナウィルス感染症はそうではありません。
空気を吸って吐く、
「誰もが当たり前にできていたことが、実は当たり前ではなかった。」
それを意識するための現象なのかもしれないのです。
いってきます、ただいまの文化
先日、たまたま「いってきます」「ただいま」を英語で何ていうのか?調べていたところ、僧侶の大來尚順さんのウェブサイトに出会いました。
その際、英語では「いってきます」「ただいま」に当たる明確な訳はないということでした。
その理由が日本の文化で育っている私にはスーッと入ってきました。
大來尚順さんのウェブサイトから引用いたします。
「Hey」「Hello」「Hi」や「Welcome back」「Welcome home」では日本語が持つ本当の「おかえり」の気持ちは決して伝わりません。私は、この英語では表することのできない「おかえり」に含まれている気持ちこそ、日本人の思慮深さを表していると思うのです。では、その表現できない思慮深さとは一体何かというと、それは「すべては当たり前ではない」(縁起)と「何がおこるかわからない」(諸行無常)という真理です。だからこそ、戻って来た方を見ると、無意識にも当たり前ではない再会が嬉しくて、また有り難くて「おかえり」という言葉が自然と口から出るのです。
私たちの言葉の根底には、
「すべては当たり前ではない」(縁起)と
「何がおこるかわからない」(諸行無常)という真理があるのです。
そのため、「いってきます」「いってらっしゃい」に相手への思いやり、愛情を最大限に込め、相手を送り出します。
その理由は、
相手が帰ってくることの保証は一切ないから。
帰ってくるのは当たり前ではないから。
だからこそ、帰ってきたときに、
「ただいま」→(「ただいま戻りました」が語源)
「おかえり」→(「ようこそおかえりなさいました」が語源)
と言って出迎えるのです。
目の前の人、物事、出来事、を当たり前とは考えずに考える。
刹那の瞬間でも大切に考える。
一期一会の気持ちで常に接する。
当たり前とは思わず、感謝の気持ちを持つ。
一期一会・・・その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構え
それを今、私たちは学ぶべきのような気がします。
2週間前に元気だった方がなくなるという可能性がある。
2週間前に元気だった方がなくなるという可能性がある。
その人は、私たちの大切な目の前の人の可能性もあります。
何より、一番一番大切な、自分自身の可能性もあります。
だからこそ、当たり前という考えを持たずに、感謝を学ぶこと。
一期一会で目の前の人・モノ・出来事に最大限の感謝の気持ちで接するということ。
それが今、私たちには大切なのではないか?
目の前の現象すべてが当たり前ではない
不要不急の外出は自粛する → 自由は正常な世界だったからあったことに気づく
学校に行けなくなる → 社会が回っているから学校も行けていたことに気づく
当たり前ではない。
製造してくれる人がいる。
流通を支えてくれる人がいる。
販売してくれる人がいる。
買いすぎないで、適度に買ってくれる消費者がいる。
様々な人が関わって、今の世界は回っていることを感じます。
当たり前に存在していた空気でさえ、ありがたい(有難い)。
当たり前に動いてくれていた肺でさえ、ありがたい(有難い)。
ありがたいことは星の数ほどあるのに、私たちはどんな思いで日々すごしているのだろうか?感謝をしているのだろうか?
ありがとうは人に使う言葉じゃなかった?
ありがとうの語源は「有り難し」から来ています。
「有り難し」というのは、存在しにくいこと、という意味で「滅多にないこと」と私は思っていたのですが、実は「有り難し」というのは「ありえないこと」「存在しえないこと」をそう呼んだのだそうです。・・・つまり、それは「ありえないこと」を神・仏が起こしてくれた場合に使った言葉でした。
神・仏をほめたたえ、賞賛する言葉として「ありがとう」「有り難し」「有り難い」という言葉が存在したのだそうです。そして、それは室町時代以前は人に対して使われることはなかった。人に対して使われるようになったのは、室町時代以降のことだそうです。・・・
「ありがとう」という日本の言葉は、人に対して使われたものではあく、本来は神・仏が、ありえないことを起こしてくれた、やってくれた場合に使われた言葉です。
ありがとうは昔、神様へ向けられた言葉だったと言います。
この世の命一つさえ、人間は作れません。
たんぽぽの花びら一つも私たちの力では命は作り出せないそうです。
ハチは航空力学上飛べないそうです。
それが飛べている奇跡。
ありえないこと、ありがたいこと、地球上に無数に存在しています。
もしかしたら本当に神様は存在して、目の前の当たり前と感じることすべては神様が起こしてくれていると感じ、「ありがとう」「感謝してます」と感謝することが大切なのではないでしょうか?
ありがとうやその気持ちが世界の共通語になるか?
ありがとうが日本中に蔓延して、人も体も心も元気になって、もしかしたら日本中の幸せな空気で、コロナウィルスはいなくなるかもしれません。
実際、ついてる、うれしい、たのしい、幸せ、ありがとう、感謝してます、愛してます、ゆるしますという天国言葉を話すと、元気が出て、免疫力があがります。
そして、世界中に「ありがとう」の輪を広げる。
世界の共通の考え方、言葉にし、「ありがとう」からコロナウィルスを撃退していく。自分自身を大切にし、目の前の人を大切にし、物事を大切にし、出来事を大切にする。
コロナウィルスはそんなことを投げかけているのではないか?
と思うのです。
日本とそして世界から感謝の気持ちで包まれて、コロナウィルスが納得して地球上から去っていく。そんな日が早く来ることを願って。